温泉本 (SPA BOOKS)

 

高熱隧道

宇奈月を出発したトロッコ列車は、深い渓谷を縫って進み、黒薙温泉、鐘釣温泉を経て終点の欅平駅に到着する。欅平には名剣温泉と、少し歩くと祖母谷温泉がある。スニーカーを穿いた観光客はここまで。登山者は欅平で登山靴に履き替え、急坂に足を踏み出す。

黒部の春は遅い。7月に入ってようやく春らしくなってくるが、まだアイゼンが必要な場所もある。それほどまでに山が深い。そして駆け足で短い夏が過ぎ、9月下旬には山肌が紅く色づき始める。紅葉が麓まで下りる頃、山頂では初雪が降り、やがて11月にはまた白く深い静寂の世界に閉じこめられてゆく…。人をかたくなに拒み続ける厳しい山の姿に戻るのだ。

欅平から急斜面を250mほど登ると、傾斜は緩み道は徐々に水平に近付く。ここからは旧日電歩道、または水平歩道と呼ばれる道だ。垂直の崖の中腹にコの字にくり貫かれた幅1m未満の歩道--足下は切れ落ち黒部川は遥か下方、防護柵などないから、蹴躓きでもして足を滑らせ落ちればまず命はない--を経て、欅平から5時間半ほどで阿曽原小屋に至る。阿曽原小屋から1時間ほど歩くと仙人ダムに辿り着く。その先から黒四ダムまでは下の廊下と呼ばれる、息を飲むほど美しい十字峡だ。また、仙人谷を剣岳方面に行けば仙人温泉がある。欅平〜阿曽原間の水平歩道は、例年夏が来てからようやく通行可能になる。その先の下の廊下など9月過ぎ、あるいはついに開通しないシーズンまであるほどだ。

阿曽原小屋では露天風呂に入ることができる。その湯は、高熱隧道の湯と呼ばれている…。

欅平から仙人谷を経て黒部ダムまで、一般人は乗れないが、関西電力の軌道トンネル内に鉄道が通っている。昭和11年、黒部第三発電所建設のため、欅平〜仙人谷間の軌道トンネル掘削工事が始まった。しかし、それは想像を絶する難工事であった。阿曽原から仙人ダムまでの工区は、岩盤温度が160度を超える高熱地獄。また、軍需電力を賄うために完成を急がれた工事は、深い積雪の冬季も続けられた。深い谷は雪崩の巣である。高熱によるダイナマイト暴発、泡雪崩による被害。トンネル内気温70度に達する中での作業は息もできない。昭和15年完工までに、ついに死者は300余名を数えるに至った。トンネル屋の意地で完成に漕ぎ着けたのだろう。ちなみに、欅平から仙人ダムまでの水平歩道は、旧日電歩道と呼ばれる通り、この第三発電所建設のために整備された歩道である。大量の資材を、上記のように頼りない水平歩道で運搬したのだ。もちろん機械なんか使えない、全て人力でのボッカ頼り。

吉村昭の「高熱隧道」は、上記のトンネル工事を題材に、物語を紡ぎ出している。登場人物や細かいディテールはフィクションであるが、調べる小説と呼ばれる吉村昭のジャンルは、ドキュメンタリーと小説の中間に位置していそうだ。歴史の事実を詳細に取材し、真実を骨子にフィクションで肉付けされた物語は、よりドラマティックに歴史を再現して見せる。

もし、宇奈月・黒薙・鐘釣・名剣・祖母谷などの温泉旅行を計画したならば、行く前に是非「高熱隧道」を読んでおくべきと思う。過去に思いを馳せながら見る景色は、漫然と行く旅行なんかより、ずっと深みを持って眼前に迫ってくることだろう。なお、普段一般には開放されていない高熱隧道と黒部第四発電所を見学できる「黒部ルート見学会」が毎年行われている。欅平〜黒部ダム間をトロッコ列車で見学できるが、人気があるため殆どの日程が定員を超える応募者がおり、その場合抽選により見学者が決定される。